周りがぼんやりと明るくなった気がした。
白み始めた視界の中、うっすらとだが近くに誰かがいるのがわかる。

「―――もういいだろう。早く帰れ」
「そんな邪険にするなよ。俺だって此処まで手伝っただろうがっ」
「頼んだ覚えなどない。そなたが勝手にやったのだろう」
「だあーもう! 可愛くねえなお前!」

(だれ、…?)

声音からして、二人。二つの異なる声が聞こえる。
その気配を間近に感じながら、ふ、と静かに息を吐いた。







「だから、アレは何だったんだよ」
「……関係ないだろう」

ああ、やはりこうなったか。
面倒臭いことこの上ない。

葉王は目の前にどっかりと居座る男を、内心うんざりしながら見つめた。

「布勢。大体そなた、何故あのような場所へ来たのだ」
「お前の噂の真偽が気になって」
「…は?」
「朝お前、伯父貴どのから呼び出し食らったんだろ。その事だよ」
「……、ああ」

またひとつ、嫌なことを思い出してしまった。
折角忘れていたと言うのに。
大体、噂の真偽とは何なのか。
…もう、人の口にのぼる程広まっているのか。

「…俗だな」
「人だからな」

間髪入れずに返された。
当たり前のように言われて、聊か葉王はムッとする。
だが、すぐにぐっと嚥下した。

余計な言い争いは時間の無駄だ。
早く、あの娘が起きてしまわぬ内にこの部外者を追い出したかった。
第一ここは葉王の邸なのだ。
主が出て行けというのに、招かれざる客は帰ろうとしない。
あの娘や、葉王がいたあの場所に強い興味を覚えたらしいのだが、説明したくなかった。

元よりあの場所も、あの娘の存在も、誰にも明かしたことはないのに。
誰にも踏み入らせたくはないことだったのに。自分だけが知っていれば良いことだった。
なのに。

葉王は一層目元を険しくさせると、

「帰れ」
「…とうとう命令かよ」
「此処は僕の家だ、他人を追い出して何が悪い」

今まで他者とは余り角を立てずに生きてきたが、今日はもう仕方ない。
葉王は語気を強めた。

「確かに、誰にも騒がれず此処まで彼女を運んで来れたのは、そなたの一存もあってのこと。それは礼を言う。
 …だが、後は僕が引き受ける。そなたは帰って良い」
「お前、何むきになってるんだ?」
「むきになどなっていない!」

苛立ちが募る。
駄目だ、感情を荒げては。駄目なのに。
どうもこの飄々とした男は苦手だった。

「…大体、あの娘の着物はどうするつもりなんだ? この邸に女物なんかないだろ」
「差し当たり、僕の昔の服が残っている。必要なら、後で手に入れれば良い」
「お前ね、何でそこで俺に『お願いします』って言えないのよ?」
「必要ない」

ああ、早く。早く。
帰ってくれ。

「ったく――――」

不意に、布勢の言葉が切れた。
髪をかき上げたその体勢のまま、小さく息を飲んで一点を凝視する。
まさかと思いながら葉王も振り向いて―――

少女の大きなふたつの瞳と、かち合った。







部屋内が、しん、と静まり返る。
誰も口を聞こうとしない。

気付かなかった。
気配も、足音も。
まるでその空間に突然現れたかのように。

しゅるり。
少女の纏う単衣が鳴る。
どうやら、この邸に着いた時、意識のない彼女へかぶせた単衣を、そのまま身に着けてきたようだった。
二枚ほど重ねているようだったから、露骨に身体の線が見えるようなことはなかったが、それでも小柄であることが見て取れる。
垂らした豊かな髪が、揺れる。
その大きな瞳で、二人の人間を見つめている。

「…もう、何とも、ないのか…?」

布勢の上ずった声に、葉王もようやくハッと我に返った。
少女自身は布勢の声がよく聞こえなかったのか、ゆっくりと彼の方を向いた。何となく視線が定まっていない。だがその顔は、微かに不思議そうで。

―――そこに、あの洞窟での削がれるような威圧感は、ない。

「…そなたは、山の洞窟で倒れていたのだ。そこを僕達が見つけて、勝手ながら僕の邸へ運んだ」

恐る恐る、葉王は告げてみる。
本当は少し違うのだが、まさかストレートにお前は氷の中にいたのだ、とも言えず曖昧にぼかす。
少女の反応を見るためでもあった。

緩慢な動作で葉王の方を見、少女はようやくぽつりと口を開いた。

「洞、窟…」

澄んだ、通る声だった。

「ああ。…そうだ、僕は葉王。麻倉、葉王」
「俺は布勢だ。お前さん、名前は?」

何でお前も名乗るんだと無言で圧力をかけてくる隣の視線も物ともせず、布勢があっけらかんと尋ねる。

「私は…」

少女の唇が、小さく動く。

だがその瞬間、不意にその身体が傾き、がくりと膝をついた。

「!」
「お、おい、大丈夫か」

慌てて二人は駆け寄る。
少女の顔を覗き込むと―――苦しげに眉を寄せ、息をついていた。

どうしたのだ。
やはり具合が悪いのだろうか。
考えてみれば当然だ、今までこの少女は長い間氷の中で眠っていたという、尋常でない状態にあったのだから。
それとも、昔乙破千代が言っていた結界とやらが、突然解けてしまった影響だろうか。

そんなことをぐるぐると考えていた葉王の袖を、彼女の小さな手がぎゅっと握り締めた。

「お…」

「お?」

苦しげに、息をつきながら。
彼女は、搾り出すように言った。

「おなか、へった…」

…………。

葉王と布勢は、しばし抱えた少女を見つめた。

…今、彼女は何と言った?

頭の中で、今聞こえた台詞を反芻する。

何度も何度も。
反芻して。
把握、する。

「…腹が、減っているのか…?」

ぽつりと葉王が言う。
拍子抜けした顔で。
布勢も似たような気持ちなのか、何とも言えない表情で少女を見つめていた。

こくり、と少女が頷く。
どうやら空耳でも何でもなかったらしい。

とりあえず、急遽少女に食事をさせることになった。










物凄い勢いで食器が空になっていく。

まだ夕餉の時間まで少しあったから、簡単なものしか用意できなかったのだが。
粥を用意させて正解だったと、葉王は安堵した。
長い間何も口にしていないのなら、急にしっかりしたものを食べると腹を壊してしまう。そう考えて、水気の多いものを出させたのだ。
葉王の予想通りあの食べっぷりならば、いつものように強飯でも出していたのなら、一発で腹が痛くなっていただろう。

―――それにしても。

葉王はチラリと横を見、同じく目を丸くしている布勢を確認した後、こっそりと息をついた。

あれほど焦がれていた――憧れていた存在が、今目の前に居て。
喋ったり動いたりするだけでなく、目の前で飯を食っているのである。…若干抱いていたイメージと違うような気もするが。

でも。

人間と同じ。
そう、普通の人間と同じように。
息をしている。
紛れもなく―――生きて、いる。

こんな不思議なことがあるものなのか。

「………」

自分の手を見る。
さっき、倒れかけた少女を支えた手だ。

あの時掴んだ腕は、
確かに温かかった。

「…おい」

横から無粋な声がした。

「何だ」
「あの娘…一体、何者なんだ?」
「僕だって知りたい。…というか布勢、そなた本当にいつまで居座るつもりなのだ」
「あっくそ、思い出しやがって!」
「………」

「―――ご馳走様でした」

ぱん、と軽い音がして、少女が膳に向かい丁寧に合掌した。
きちんと付け合せの漬物も平らげ、器には米粒一つ残っていない。
文字通り完食したようだ。

「美味しかったわ。ありがとう」
「ああ、いや…」

少女が葉王に向かって、小さく頭を下げる。
さっきよりも随分声に張りが出ている。

しかしそれ以前に、

(話し、掛けられている)

今の言葉は、明らかに、自分へ向けられた言葉だった。
あの少女が。
自分へ。
何とも言えない気持ちが、じわりと葉王の胸へ広がっていく。

嗚呼、やはりこの少女は、紛れもなく生きているのだ。

驚きも、信じられない気持ちも、まだまだあったけれど。
今この瞬間意識を支配したそれは――照れ臭さにも似た、確かな、喜び。

「それで、話を戻すけどよ。お前、名前は」

しかしまたしても無神経な声が、現実に引き戻す。

葉王は無言で布勢を睨んだ。
だが当の本人は、やはり気付かない。もしくは気付かない振りをしている。恐らく前者だと思うが。

少女はひとつ頷くと、きちんと葉王達の方へ身体ごと向き、姿勢を正した。
真っ直ぐに前を見る。

「私の名前は――」

言いかけたその時。



不意に、葉王がぴくりと顔を上げた。



屋敷の周囲には簡単な結界が張ってある。
元々それは悪しきものを敷地内に入れない為のものだったが、たとえ相手が只の人間であっても、その境界を越えられた時は察知できる。

これは。この気配は。

その微かに張り詰めた空気に気付いたのか、布勢が怪訝そうな顔をする。

「葉王? どうした」
「………客だ」

今日はいやに客の多い日だ。
しかも今度は、この厚かましい男よりも、更に厄介な客である。
渋い顔のまま、やれやれと葉王は息をついた。
少女の名を知るのは、もう少しあとになりそうだ。










□■□










「―――すまぬな、葉王。急に訪ねてしもうて」
「いえ」

伯父の言葉に、まさか正直に頷く訳にもいかず、葉王はいつものように穏やかな態度で対応した。

一体伯父はどのような用で、わざわさ邸まで訪ねてきたのだろうか。
寝殿へと続く廊下を歩きながら、葉王はそんなことを思った。

心当たり。
あるとすれば、ひとつ。

(……恐らく、朝の話の続きだろう)

こうして改めて伯父を見ると、顔の皺も弛みも初めて会った時に比べて格段に増えた。
背はまだ真っ直ぐ伸びているが、元々歩かない性質だ。そのうち筋肉も目に見えて衰えてくるだろう。
老けたのだ。
それはもう、余り先の猶予がないということ。

伯父も必死なのだろう。

だがそれとこれとは別である。葉王にとっては、伯父の先など別段興味もない。
だから正直話も聞きたくないのだが、相手が相手なだけにそうもいかなかった。
これが単なる職務であれば、やれ物忌みだの体調が悪いだのと適当に理由をつけて、拒否することも出来るのだが。

少女には、あのまま別室へ移動し、待って貰うことにした。
今伯父に会わせたら面倒だ。
彼女の傍には布勢がついている。全くもって不本意だが、この際仕方ない。

(…余計なことをしていないといいが)

主に同僚の顔を思い浮かべながら、葉王は嘆息した。
今日は実にため息の多い日だ。










□■□










―――おかしい。早すぎる。

少女は心のうちで、ひっそりと呟いた。

何故自分はここにいるのだろう。
自分を此処へ運び込んだという、彼らは一体何者なのだろう。…この時代の、にんげん?

「…ねえ」

「ん?」

突然話しかけられて、布勢はやや面食らいつつ返事をした。
本当は、自分の方が少女へ質問しようと考えていたのだ。
名前はまあ葉王が戻ってきてからでもいいが、あの洞窟でのこととか。色々聞きたいことがあった。何せ葉王はあの様子だ。教えてくれないのなら、この少女から聞き出せばいい。

――だから、まさか少女の方から話しかけられるとは思わなかった。
しかもその丸い瞳は、何かを頻りに思案しているようだ。

「…今、いつなの?」
「は?」
「ああ、ううん、そうじゃなくて………ねえ、最近何か変わったことはなかった?」
「変わったこと?」

突然何を言い出すんだこの娘は。
布勢は眉をひそめる。

「…別に、これと言ってない。あれば今頃、うちの仕事場が大騒ぎしてるだろうし」
「仕事場?」
「何かあれば、占いに出るんだよ。それで上に報告する。だが最近は……いや、ひとつあったか。今日、やけに大きな地震があった」
「地震…」
「ああ。前兆なんかはなかったからなぁ。
 だから確かに、今頃宮中は大騒ぎかもしれない。…ま、『何で察知できなかった』ってどやされんのは、俺なんかよりもっと上の奴だろうが」
「いつ頃?」
「俺が、お前さんと葉王の奴を見つける直前だ」

布勢の言葉に、少女がじっと考えこむ。

(たぶん、私が目覚める直前…)

間違いない。自分が今こうして起きているのは、その地震が原因だ。
でも、どうして。
彼らは占いをするという。そして、それが仕事だとも。
ならばそれを専門職とする彼らが予期できなかった、地震とは。

「…大きな流れ星は、見なかった?」
「何だそれ。そんなもんあったら、それこそ京中が大騒ぎだろう」

やはり。
少女は納得する。
早すぎたのだ。目覚めるのが。

どうしてだろう。
いつもなら――ほんの五百年前までならば、あの凶つ星が流れると同時に、自分は目覚める筈。
何故、こんな早くに。

予測できなかった地震。
早すぎた目覚め。
…他に、もっと何か理由がある気がした。

何かが、ひっかかる。
一体何を忘れているというのだろう、私は。

目覚める直前。
誰かに―――呼ばれていたような…。

「………」

黙り込んだ少女を、布勢もしばし見つめた。

何なんだ、この娘。

急に物怖じせず質問してきたり、かと思えばこうやって黙りこくって何かを考え込んでいたり。
およそ、見た目に似つかわしくない態度だった。
外見は年端もいかない少女なのに、口調も態度も表情も、そう、どこか―――いやに大人びている。
はっきりとは言い表せない、異質な空気の少女。

何となくそう感じた。
ただの勘だが、だからこそ当たっている率は高い。

「……って、おい」

不意に少女が立ち上がり、部屋を出ようとする。
布勢は慌ててそれを制止した。

「ばか、部屋から出るなって葉王から言われてるんだよ」
「すこし辺りを見るだけよ」

頭の中を、整理したいの。

そう淡々と告げる少女に、「いいからもう少し待ってろ」と布勢は言う。
今は駄目だ。あの伯父貴がここへ来ている。
恐らくあの朝持ちかけられたという縁談についてだろう。
人は老いには勝てない、だから彼の焦燥も布勢だって少しはわかる。

だからこそ。
だからこそ、今この少女と会わせるわけにはいかないのだ。

葉王のこの邸には、無駄なものは置かない主の性格が反映してか、家具も少ないが使用人も少なかった。
本当に最低限の数しかいない。
しかも、どの者も伯父が用意した者達だ。

そんな邸に、伯父も知らない、年頃の娘が存在する。
それではまずいのだ。

勿論葉王のことだから、別にやましい下心がある訳ではないのだろうが、それでもあの伯父のことだ。色々と勘繰ってくるだろう。
自分らだってこの少女のことは把握しきれていない。そんなときに痛くもない腹を探られたら、色々と面倒臭いのである。

少し前、葉王が同じようなことを布勢に対して思っていたことなど知る訳もなく、布勢は小さく息をついた。

(……何を必死になってるんだ俺は)

口を開けば生意気な言葉ばかり、揚げ足につられるような可愛げも、からかい甲斐もない後輩のことを。
何故、そんな奴の心配などしているのだろう。
確かに興味はあったけれど、でも―――からかいこそすれ、別にそれ以上の仲でもないのだ。
さっきだって、素っ気無く礼を言ったかと思えば「早く帰れ」の一点張りだ。これほど可愛くない後輩は、恐らく彼だけだ。

「…いーから、大人しくしとけ」
「ちょっと見るだけよ」
「駄目だっつの」
「っ…少しぐらい良いじゃない!」

業を煮やしたらしい少女が、強引に布勢から逃れ、部屋から飛び出す。

「あっ、ばか」

何だあいつ。大人びた奴かと思えば、とんだはねっかえりじゃないか!

そんなことを思いながら、慌てて部屋の中へ少女を引っ張り込もうとして――



「……その娘は、何だ」



嘘だろ、おい。

廊下の向こうに、一番会いたくなかった人物が佇んでいるのを見て、布勢は己の運のなさを呪いたくなった。
しかも傍には葉王の姿。
伯父を門まで送るところだったのだろう。
その表情は、伯父からは見えないが、これ以上ないほど引き攣っている。

(あちゃー…)

間が悪いとはこのことだ。
頭を抱えた布勢をチラリと横目で見て、伯父は少女に目を移す。

「…この娘は、どうしたのだ。葉王」

視線は少女に突き刺したまま。
口調は、背後の葉王へ。
声音は硬い。

「こ、この者は…」

葉王が言いよどむ。

まだ娘の名前すら知らないのに。
咄嗟に答えられる訳もなく。
しばし気まずい沈黙が流れる。

「…あ、あー…麻倉幹次殿。彼女は、新しいこの邸の女房だ」

苦し紛れに布勢が助け舟を出す。
だが、どう見ても穴だらけの泥舟だった。

「……何? 葉王が雇うのか? 使用人など、自ら雇ったこともなかろう」

案の定伯父は突っ込んできた。

ですよねー。
自分で言っておきながら、布勢はひっそりと同意した。
見れば、葉王がじとりと睨んでくる。
…俺のせいなのか!

とは言えず、「ええまあ」と曖昧に笑いながら濁す布勢に、伯父は「ふん」と鼻を鳴らすと、

「……葉王。この娘の名は何と言う」
「…、名前、は」

再び葉王にお鉢が回ってくる。
だが、それこそ葉王だって最も知りたいことだ。
こればかりは誤魔化す訳にもいかない。

「………」

せめて、彼女からこの場で名乗ってはくれないだろうかと、少女の方へ目を移した。

視線が、合う。

(…え―――……?)

一瞬、葉王は目を瞠った。
唇が空回りする。
今、今彼女は―――



「―――――……、と申します。その者の名は」



気付いたら、勝手に言葉が滑り出ていた。
布勢も目を丸くする。

「な、お前、こいつの名前――」

「…ふん。なるほど」

だが傍に伯父がいたことを思い出し、すぐに布勢はハッと口を噤んだ。

伯父はそのまま、じろじろと少女を値踏みするように見つめる。それこそ、足の先から頭のてっぺんまで。

「…どこの家の者だ」
「え」
「素性は」

再び葉王の頭の中が真っ白になる。
そんなこと、考えもしなかった…!
だが思えばそれは当然のことだ。『大事な』甥の邸に、素性のわからぬ小娘など置ける筈もない。

今度こそ完全に沈黙した葉王に、意外なところから声がした。

「私は、彼の――この者の親類です」
「なに、布勢殿の」
「ちょ、お、お前、」

言いかけた布勢を、少女が「黙って」と小声で耳打つ。

「…それは真か。布勢殿」

伯父が布勢をひたと見据え、尋ねる。
こうなったら、もう仕方ない。

「……ええ、まあ」

やけになって頷く。
くそ、何でこんな娘が俺の身内になるんだ…!
確かにこの場では仕方ない事とは言え、釈然としない布勢だった。

「…そうか」

対して伯父の方は、それでまあ何とか納得したのか、その後ようやく帰って行った。





「―――っあーくそ。寿命が縮むかと思ったじゃないか!」
「それはこっちの台詞だ! 部屋から出るなと言っただろう!」
「仕方ないだろ、そこのはねっかえりが俺を振り切って出て行こうとしたんだ」

俺はきちんと止めたんだぞ! と子供のように主張する。
その仕草に、これではどちらが年上なのかわからないと葉王は思った。

「大体なあっ」

びしぃ!と布勢が葉王を指差す。

「さっきから俺すごく可哀想じゃない? あの娘を此処まで運び込むのだって、手伝ってやったのに関係ないとか袖にされて…俺だって当事者なの、事情を聞く権利ぐらいあるだろ!」
「それに関してはさっき礼を言った」
「礼はいいから事情を教えろ。俺を仲間外れにするな!」
「………それが本音か。ここまで子供じみた先輩、僕は知らないぞ」
「俺だってお前みたいな可愛げのない後輩、後にも先にもお前だけだろうよ!」

口論の焦点が、段々違う次元へと落ちていく。
そんな二人の言い争いを、しばし見つめて。
不意に少女がぷっと噴き出した。

くすくすくす。
そんな軽やかな笑い声に、ようやく葉王も布勢も我に返った。
そして自分たちの状況を把握し、お互いに気まずい顔をしながら、少女へと向き直る。

少女はそれでも、ころころとおかしそうに笑っていた。

毒気を抜かれてしまう。

結局ここで言い争うのも馬鹿馬鹿しくなって、布勢はふとさっき感じた疑問を口にした。

「おい葉王」
「…何だ」
「さっき、コイツの名前……とか言ったか。何でわかったんだ? やっぱり知ってたんじゃないのか」

だが、葉王はそれを否定する。

「違う。知らなかったよ」
「じゃあどうして」

伯父に名を尋ねられたあの時。
彼女へと視線を移した葉王は、その双眸もまた此方を見つめていることに気付き―――

少女は無言で、首を横に振ったのだ。

まるで自分に名などないとでも言うように。
葉王の「名乗ってくれないだろうか」という考えを、読んだ上で。

だから、あの時葉王の唇から出た名前は。

「ただの、でたらめだよ」

本当に、気付いたら唇が勝手に動いていた。
だから考えて思いついた名前ではなく、それは確かに、でたらめな、適当な名前だった。単にその時頭に浮かんできただけなのだ。

葉王の返答に、布勢が「はぁー?」と気の抜けた声を出す。
まさか全くのデタラメだとは思わなかったらしい。

葉王は、少女へ頭を下げた。

「…さっきはすまなかった。勝手な名を付けてしまって」

しかも、間に合わせのものだ。
もしかしたら、名前などないのだと思ったのも、単なる自分の勘違いだったのかもしれない。
あの時彼女は、もっと別のことを伝えようとしていたのかもしれない。
それを踏まえ、葉王は少女に謝ったのだが。

少女は。

「…ううん」

と。
まるで花が綻ぶような笑顔を見せて、言う。

「凄く、良い名前ね。。私の、なまえなのね」

まるで、心の底から嬉しそうに。
少しはにかみながら。
それでも、満面の笑みを浮かべて。

「い…いいのか」

これには葉王も驚いた。

「良いわ。だって、私に名前がないのは本当のことだもの」
「本当に…名が、ないのか」
「そう」

あるにはあるけれど――でもそれは、『私の』名前じゃない。
だから名前なんて、あってないようなものなの。

少女はそうあっさりと言う。
まるで禅問答のような、台詞。

だが二人がその意味を尋ねる前に、少女はまたにこっと笑った。

「だから、ありがとう。素敵な、いい名前。すごく嬉しい」


少女は本当に嬉しそうに、その名前を何度も口ずさむ。
頬が仄かに赤く染まっている。

その余りの幸せそうな様子に、水を差すことも憚られて―――葉王も布勢も、少女の言葉の意味を尋ねる機会を、何となく逃してしまった。
どうしてこの娘は、単なる名前でそんなにも喜んでいるのだろう。

「……でも、こちらこそごめんなさい」
「え?」
「さっき、そこの彼の親戚だって嘘ついちゃった」

と、布勢の方を見る。
そういえばそんな嘘もついていたな、と今更ながらに布勢も思い出し。

が、やがて小さく肩を竦めると、苦笑を漏らした。
少女の無邪気さに、何となく怒気を殺がれてしまった。

「…ま、いいさ。お前、確かに俺の身内にいそうな奴だ」
「どういう意味?」
「俺んとこははねっかえりが多いってことだ」
「失礼ね。私の――のどこか跳ね返りだと言うの」
「…お前、いっぺん自分を見つめ直した方がいいと思うぞ」

布勢が疲れたように息をつく。
さっき部屋を飛び出そうとした少女に振り払われた手は、ちょっとばかり痛かった。

「……でも、さっきのあの人は誰? あんな間に合わせの嘘ばかりついて…大丈夫だった?」

少女の言葉に、葉王も布勢もようやく事の次第を把握する。
そうだ。
まさか後から嘘だとも言えまい。
名前も、素性も。
それに何より。

「……お前さ、この邸で女房するつもり、ない?」

自分が言ってしまった嘘に、多少罪悪感もあるのか。
布勢が恐る恐る、少女に尋ねる。

「女房って、何をすればいいの?」
「主人…ここだと、葉王だな。そいつの世話をしたり…まあ住み込み使用人みたいなもんだ」
「…ふうん」

少女はしばし思案する。
やがて、ふと顔を上げると、葉王へ尋ねた。

「ねぇ、あなたは」
「え」

いきなり矛先を向けられて、思わず葉王は狼狽する。
だが少女の視線は、真っ直ぐだ。

「あなたは、どう思う」

そこには別に、媚だとか、不安だとか、そういったものは一切含まれていなくて。
ただ、純粋に。
少女は、葉王を見つめる。
さっきから彼女はそうだ。
相手を見つめる時、こんなにも、真っ直ぐな目をする。

葉王も、しばらく黙り込んで。

「……僕は、構わないよ」
「ほんとう? …がいて、迷惑じゃ、ない?」
「まさか」

もとより、この少女が自分の元に来るというなら。
拒否する理由など、どこにもないのだ。

少女は葉王の答えに、「ありがとう」とまた笑った。
どこかホッとしたように。
…余り感情を表に出さないだけで、本心は不安だったのかもしれない。
そんなことを葉王は思った。

そう、彼女は長きに渡り、あの氷の中にいたのだ。あの真っ暗な闇の中で、ただひとり。
もし本当に、あの氷がずっと昔、葉王が生まれる前からあったのだとすれば――彼女の身内がまだ生きている可能性は低い。
つまり、彼女はたった一人も同然と言うことで―――

(…………うん?)

そこまで思案して、ふと、葉王は硬直した。
何か大事なことを忘れている気がする。
大事な、何か…

「葉、王!」

不意に肩に腕を回される。
布勢だ。
その感触と、声音に――葉王は嫌な予感を覚えた。
そうだ。彼だ。

「コイツが俺の身内として貫き通すってことは、俺が事情を知る権利も、益々増えたってことだよな?」

口裏、合わせなきゃならないよな?

にやにやと笑う布勢に、葉王はとうとうがっくりと大きく肩を落とした。

(そうだった…)

確かにここまで巻き込んでは、誤魔化すことも出来ない。
下手な嘘をついても、すぐに露見するだろう。

葉王は、渋々ながら腹を決めた。
話すしか、ない。

だがまずは、少女から話を訊くほうが先だ。










「…は」





やがて、彼女は言った。

―――自分は、あそこで『来るべき時』を待っていたのだ、と。